店舗オーナーを経たからこそ、できること

 

「店舗オーナーを経たからこそ、できること」

PIECE OF SIGN 商品開発チーム・福永さんって何者?

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渋谷区神山町、通称・奥渋でカフェラテ スタンド「THE LATTE TOKYO」を運営していた、福永さん。
現在はPIECE OF SIGN の商品開発チームで、店舗向けプロダクトの企画開発に携わっています。

9年半もの間、休みなく店に立ち続けた彼が、なぜお店を閉めることを決断したのか。
そして、なぜ PIECE OF SIGN への入社を選んだのか。

「仕事は人で決める」と語る福永さん。

スターバックス時代から開業、閉店、そしてPIECE OF SIGN に参画したきっかけまでガッツリと聞いてみました。

元・店舗オーナーが PIECE OF SIGN に入った理由

── 福永さんは、もともと店舗を運営していたんですよね?
福永 2025年の5月まで、奥渋と呼ばれるエリアでコーヒー屋を10年ほどやっていました
── THE LATTE TOKYO ですよね。
常連さんも多い人気店でしたが、なぜ閉めたんですか?
福永 理由は様々ですが、一つ挙げるとしたら年齢ですね。
今、36歳なんですけど、もう少し他の景色も見たいと思ったんです
── 10年もやってきたから
福永 前職のスターバックス時代を含めると18年ですからね、コーヒー業界は。
でも、このまま40歳になるのは嫌だと漠然と思って
── それはなぜですか?
福永 これ以上続けても成長がないと感じたんです。
もうコーヒー屋を続けても学ぶことはないかなと。
約10年、休みなしでお店に立ってましたからね
── 休みなしですか? とんでもないですね。笑
福永 よく言われます。笑
とはいえ、お店をやっていたときは幸せだったんですよ。
常連さんが多くて必要とされてる実感もありましたから。
でも、ぬるま湯とも感じていたので、早く終わらせなきゃなと
── それで、PIECE OF SIGN に参加したんですね
福永 音田さん(代表)が常連だったんです。何年も通ってくれてて。
それで"もう辞めようと思うんです"と話したら、
"それならうちにくる?"って話になって。
でも、僕は物作りをしたことはないし、デザインも出来ない。
だからちょっと困惑しました
──

何ができるんだろう、みたいな

福永 まさに。でも僕は仕事を"人で決める"ところがあるので、
音田さんに誘われたら断ることはできないって感じでしたね
── 仕事内容よりも人だと
福永 そうですね。お店を始めようと思ったのも、
人で仕事を選んだからですし。
まさに縁だなって感じです
THE LATTE TOKYOのコーヒー

開業のきっかけも人つながり

── まさに人が人を呼んでいる感じですね。
福永さんのルーツを知りたくなってきました。
コーヒーは元々お好きだったんですか?
福永 いつからですかね。ただ、覚えてるのは中学生の頃です。
母にスターバックスへ連れて行かれたのがきっかけです。
あの音や匂い、働いてる人の姿がかっこよかったのは覚えてます
── その時からコーヒーを?
福永

いえ、フラペチーノ。コーヒーは飲めませんでした。
でも、憧れはありました。大人に憧れてたんでしょうね。

それで、高校の近くにもスターバックスがあって、
当時は学校には行かずにスタバにばかり行ってました。
フラペチーノじゃかっこがつかないから、
キャラメルマキアートを注文してみたんです。
そしたら、それがすごく美味しくて

── なるほど
福永 この時の喜びとか美味しさ、
そこで過ごす時間がとても贅沢に感じられたんです。
その時にスターバックスで働こうと決めました
── それがコーヒー業界への入口だったんですね
福永 まさかそこから8年間も働くと思いませんでしたけどね。
18歳から26歳まで働いて、コーヒーの知識や作り方、
マネジメントなど、この時の経験が今の僕を作っているのは間違いないです
── そんなに長く働かれたんですね
福永 僕も予想外でした。
大学生活の4年間で終わるはずが、まあ色々なことがあり。
尊敬できる上司とも出会って、社員にまでならせてもらって、
そのまま店長研修まで終わらせて。
でも、そこで一本の電話が入ったんです
── 誰から?
福永 のちにお店を一緒に立ち上げる相方からです
── その方とは関係が長いんですか?
福永

高校生の時に出会ったので、もう人生の半分以上ですね。
僕が通ってた服屋さんの店員でした。

気がつけば兄と弟みたいな関係になっていて、
お店を一緒にやろうと話を持ちかけられたんです

── 迷わなかったんですか?
福永

店長はやりたかったんですよ。良いお店を作る自信もありましたから。
でも、電話をもらったその足で、上長に"辞めます"と伝えに行きました。

相方には僕が必要でしたし、さっきも言ったとおり
僕は仕事を人で選ぶ傾向があるので、
この人となら楽しくなりそうだと思ったんです

── すんなり辞められたんですか?
福永 いえ、全然。上長が3人来て死ぬほど怒られました。
お店の近くのガストで3時間。
全員ドリンクバーを頼んだんですが、
誰もおかわりなんて行ける雰囲気でもなくて。
まあ会社からしたら無責任だと思うのは当然なんです。
ただ、僕も言いくるめられないように入念な準備をして
── 入念な準備?
福永 店舗物件の初期費用、使いたいマシンの金額、僕の貯金額、借入額など。
「無計画にお店を始めるよりも、
店長をやりつつ準備をすればいいじゃないか」
と言いくるめられないようにしようと思って
── 用意周到ですね
福永 その時の僕は26歳でしたから、
大人3人を相手にすると負ける気もしたんです。
無責任な自覚はあったから負い目もありましたし。
なので、説得しても無駄だと思わせる必要がありました
THE LATTE TOKYO の看板とコーヒー

開業から今へ

── それで無事に辞めて、お店を開くと
福永 そうですね。お店を開くための準備が始まりました。
オープンは会社を辞めて3ヶ月後でしたね。
我ながら早かったと思います
── かなり早いですね
福永

お店を始めると、収入がないのに支出があるんですよ。
これがなかなかのストレスで。

家賃だけではなく、内装費や備品もそうですし、
エスプレッソマシンなんて100万を超えますから。
この時は本当に嫌になりました

── 26歳にはあまりない経験ですしね
福永 借金は全部で650万円ほどしたんですが、
これを返すのに売る商材が450円のカフェラテでしたからね。
これって返せるのかなと…
── 事業計画は立ててなかったんですか?
福永 もちろん作りましたが、まだリアルに感じていなかったんです。
公庫からお金が振り込まれて、そこから減っていく残高を見て
初めて現実を知りました。
お店を開ける喜びよりも、現実の重さにくらってたんです
── やり始めたら、もう止まれない感じですね
福永 必死でした。無駄なお金を払う余裕なんてないと。
それでオープンしたんですが、ここからが本番だったんです
── 本番?
福永 大変さの本番。
お店を開けたらお客さんは自動的に来ると思ってたんです。
コーヒーは敷居が低いですし。でも、来なかった
── どうされたんですか?
福永

最初は何をしたらいいかもわかりませんでした。
認知されていけば自然に来るだろうと、
不安を楽観で押し潰すみたいな感じでしたね。
お店を開けるまでもしんどかったのに、本番はここからかと、
割と本気で絶望して。

でも、毎日お店を開けていると
少しずつ常連さんが増えていったので、どうにか心が保てました

── 常連さんがいるのは心強いですね
福永

スターバックスではあまり感じたことのない感情でした。
あそこは誰がお店に立とうとお客さんが来ますからね。
それが強さでもありますし。

でも、自分のお店は僕しかいない。
大変な面もありましたが、
常連さんになってくれる嬉しさは、
自分で始めたからこそ気づけたことでした

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── そうした経験を経て、いまは商品開発チームにいるんですね
福永

そうですね。
お店の人がどんなものが欲しいかというか、
僕が欲しかったものを作ってます。

デザインは出来ないけど、お店をやっていた経験があるから、
その目線で何か貢献できるかもしれないと思って

── これから出る商品は、
お店の人目線が入ったものが多いということですね
福永 もちろん。ただ僕が入社する前からお客様のことを
当たり前に考える会社だったので、
そこまで大きな変化はないかもしれませんね
── 試作品を色々と見せてもらいましたが、
新しいプロダクトばかりで楽しみです
福永 僕も楽しみです。
僕自身がお店で困っていたことは、
もしかしたら今、お店をやられてる人も困ってるかもしれない。
そんな人を少しでも救えたらと思ってます